もう8月も終わりですね。学生たちは夏休みが終わってしまいますね。後回しにしていた宿題は決まって今日、明日で慌ててやっていたマエさんです。今回はそんなイントロから、過去を思い出しつつ少し真面目なお話を。


私が小学生だった頃のことです。初めて「球」の体積の求め方を勉強したとき、私は円との違いがよく分からなくて悩んでいました(たしか学校を休んでるうちに授業が進んでしまったのです)。”同じまるなのになんで?”という疑問です。テストに「球」と書いてあれば、球の公式に当てはめて問題は解けても、根本を理解できてはいないのです。しばらく独り悩む日々・・・。
そして、ちょっとしたきっかけでその違いが理解できたときは、それはそれは嬉しかったです。そうかー、紙に書いたまると、ボールの形のまるかぁ〜。静かな感動でした。
それと同じように、確か時期はもっと幼い頃だったと思います、私は空を眺めていて「あの雲はすごく近くにあるなぁ〜。あの雲はすごく遠いなぁ〜」とぼんやり考えているようなのんびりやの子供でした。ある授業中、校庭だったか近くの公園のような場所だったかで写生をしていた私は思ったのです。”どうして絵に描くときは、近い雲と遠い雲とを描き分けられないんだろう?”。三次元のものを二次元で表現するんだから当たり前なんですけど、子供の頃は自分の不甲斐なさにがっかりしていました。この場合は、理解できたとき可能性の芽を摘み取られた気分で何か切なかったかな・・・。
と、まぁこのように感受性豊かな子供だったんです(ちょっと違う?)。
身をもって体験し理解し会得する。どんなに些細なことでも自分なりに理解していくことこそ大切ですよね。ヘレン・ケラーにとってのwaterのように。


教科書は二次元に過ぎない


というおはなし。
…でも近い未来、教科書を開くと仮想世界が広がって何でも疑似体験出来て学べる、みたいなことになるんだろうか。そしたら三次元の教科書一丁上がりかぁ〜